#セトコーヒー

出張カフェのスケジュールや、コーヒーにまつわること書いてます。

こういうとき書いたのはだいたい夜中

ブリキの缶って、良い。

ブリキの缶には

わくわくが詰まっているのだ。

いや、前にも書きましたが。

 

ブリキ缶って

空気も光も通さない。

この、外からは

中身を観測することが不可能な

金属の容れ物に

珈琲豆を入れていると、

知らない間に豆が

人間のまだ知らないやりかたで

なんらかの変化をして熟成し、

おいしくなっていってるんじゃないかと

そういうふうなことを

考えます。

 

密閉容器であれば、

直射日光にさらすとかでなければ、

中身の見えないこういう缶だろうと

透明のガラス瓶だろうと

いれたものの状態や

状態の変わり方は同じだと

思うんですけど、

「観測できない」ことによる

ナニカはあると思う。

 

中身が見えないのであれば、

中身を確認するまで

中身の状態と云うのは

決定しない。

例えばブリキ缶を10年放置した場合、

中の珈琲豆が腐っているかもしれない可能性もあるし、

深く深く熟成されている可能性もある。

これがガラス瓶で中身が見えれば

一目了然なんだけど、

中身が見えない場合は、

開けてみるまで

どちらの可能性も、ある。

本当は腐っているのに、

いつの日にかフタを開けて

エイジドビーンズでおいしいコーヒーを

淹れる日を夢見て

わくわくすることも、

中身が見えなければ、可能だ。

いや、というか、

中身が見えなければ、

「本当は腐っているのに」という前提も

成り立たない。

 

まだ観測できていない事象は

無限の可能性を内包する。

 

そこには、

あらゆるロマンが詰まっている。

可能性というのは、

まだ確定していない、

まだ存在していない事物だけど、

ロマンはその瞬間に

確かにそこに存在する。

 

ロマンロマン云ってると

なんだかよくわからなくなってくるけど、

要はたぶん

生存本能とか生存欲求みたいなものだと思う。

生きようと突き動かすもの。

生命のベクトルの示す先。

フタを閉めたままのブリキ缶には

それがある。

それが入っている可能性は100%だ。

 

いっそ開けなければ良い。

 

でもそういうわけにもいかない。

可能性はいずれ確定する。

確定するから可能性。

儚く消えるからロマン。

儚く消えるだけで

終わらないかもしれないからロマン。

 

このブログを見ているひとは、

というかインターネットが出来ているひとは、

少なくとも明日すぐに食いっぱぐれることはない、

と思う。

動物的な生存本能で云えば、

常に満腹状態で

何をするモチベーションも起こらない状態だと

言えるかもしれない。

でも、

誰もが何かに向かって

歩みを進めていると思う。

小さなことにつまづいたり、

同じ失敗を繰り返したり、

思うようにできない自分を嘆いたり、

思い悩みながらも、

いっしょうけんめいに

なげださずに、

歩き続けていると思う。

あす食べるのに困らない今、

この身体を突き動かす生存本能の正体は

何なのだろう。

われわれの足を動かし続けるのは何なのか。

そのエネルギーのみなもととは。

 

それは摩擦熱ではないだろうか。

ある状態からある状態への遷移の瞬間に

生まれるエネルギー。

可能性が確定する瞬間。

願いが叶う瞬間、叶わないとわかった瞬間。

いきているかしんでいるか。

赤か、青か。

そのエネルギーに突き動かされて、

そのエネルギーを求めて開けたブリキ缶から

取り出した珈琲豆で淹れた

アイスコーヒーおいちい^q^

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