#セトコーヒー

出張カフェのスケジュールや、コーヒーにまつわること書いてます。

ぼくにとってコーヒーは自己表現です違うけど

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表現者ってすごいと思う。
表現ってすごい。
芸術ってかっこいい。
人間は感情で出来ていると思う。
感情の変化、喜怒哀楽、
いや、そういう起伏だけじゃなくって、
ただの揺れというか、
響きというか、
そういうものの振幅とかパターンが
人間をつくっていると思う。
そういうものに沿うように
骨とか肉がくっついているのだと思う。
だから芸術家じゃなくたって、
絵が描けなくなって
楽器が奏でられなくたって
表情が乏しくたって
くちべただって、
だから、
生きていることが表現だと思う。
それはちょっと言い過ぎだと思う。
えーと、
ともかく、
表現者がすごいと思うのは、
そのひとが何かに対したときに
感情に生まれた響きを
胸のうちに現れた実体のない“波”を、
実体のある、ほかのひとが感知することのできる
かたちとしてこの世に放つことができるからだ。
まあ、というか、
情感たっぷりに歌いあげる歌は
聴いてて気持ちいいなあ!!
とかそういうことである。
それから、
何かを思ったとき、感じたとき、
それを何かのかたちにぶちこんで、
放出できるのいいなあと思う。
自己表現の手段を持っているということは、
自分のなかに生まれた簡単に言い表せない
なにかを、
ほうっておいたら自分のなかでくさってしまって
良くないというなにかを、
エネルギーに変換して、
撃ち出すことができるということだ。
そうして撃ち出されたものは、
喰らうとしっかり響くのだ。

 

ぼくにとってコーヒーのドリップは
自己表現かというと
そうでもない。
あくまでコーヒーはコーヒーで、
気持ちによって味は変わるけど、
飲む人にとってそれが
コーヒー以外になったりはしない、
と思う。
でも、
なにか強い衝動や感情がうまれたとき、
それをぶちこめる媒介ではある。
強い思いをもって淹れたコーヒーは
必ずや相手になんらかの
感情を抱かせると信じている。
ぼくが、何か素晴らしい表現を観たり聴いたりして、
強く感情が響いたときに、
それを今度はぼくがコーヒーに伝播させ、
のんでくれたひとにもまた
響きを与える。
ということになったらいいなと思ったりする。
表現はエンターテイメントだと思う。
皆で奏でるミュージックだと思う。
響きが響きを生み、大きな響きになり、
曲が生まれ、ゆたかななにかとして
ふくらんでいって、
いい気分にさせてくれるものだと思う。
だから表現によって受け取った響きを
別の表現として伝えることができる
表現者いいなと思う。
 
そう、表現のやくわりとは、
感情を響かせることだ。と思う。
受け手の感情に響くこと。
そしておおきくなること。
そして、それだけだ。
歌や音楽、絵や詩や文学、映画に漫画。
料理やものづくりやサービス。
それらがどんなに素晴らしくても、
受け手がそれによって、
不安だらけの場所に飛び込めたり、
言えなかった告白を言うことができたり、
環境が大きく変化する決断を下せたり
できるようになるものではない。と思う。
きっかけにはなると思う。
最後の最後のひと押しになることは
あると思う。
でも、いつだって、そういう、
それまで生きてきた自分が
できなかったことや世界に
飛び込む覚悟をさせて
ほんとうに足を踏み出させる強い意志というのは、
それまで生きてきたそのひと自身が
積み上げてきた出会いや経験によってしか
生まれない。と思う。
だから暗闇に一歩を踏み出す勇気は尊い。
と思う。
えーと、
なんのはなしだっけ。
つまりですね、
そういう尊い意志を生む起爆剤に
なりえなくとも、
暗闇を照らし歩む不安を少しでもやわらげるような、
応援するような、
そういうコーヒーが淹れたいのです。
というと全然ちがうんですけど、
えー、まあ、そういう、
突き詰めれば、そう、感動。
全ての行動の燃料は
感情の響き、ゆれ、振動エネルギーだと思うので、
感動のあるコーヒー淹れたいなあと
そういうことな気がします。
感動が振動エネルギーとなり、
意志が生まれ、肉体をつきうごかす。
か?
 
栄養やカロリーがなくとも、
というかそもそも目に見えない音であったり
食べられない絵であったりしても、
ひとが生きていくために絶対に必要な
エネルギーを生みだす。
それが表現と表現者
そしてそうして生まれたものは
かたちを変えながら伝播していき
無限におおきくなっていく。
だから、すごい!
 
(きょう淹れたコーヒーがおいしかったので
 調子にのっています)