#セトコーヒー

出張カフェのスケジュールや、コーヒーにまつわること書いてます。

コーヒーと自信

先日は、内代KATACHIスタイルでした。

お越し下さったこと、関わってくれた方、

すべてに感謝です。

コーヒーを淹れる、ひとが飲む、そのひとがくつろぐ。

えらいことです。

現代社会、ストレス魔境のこの世の中で、

ひとをリラックスさせるというのは、

なかなかのもんです。と思います。

まあもちろん、「KATACHI」さんなど、

いつもコーヒーをおこなわせていただいている場所の

パワーも相当かかわっていることは確実ですが。

ただまあ、コーヒー。

これは、ソサエティさんという1個の

集合生命体に対する、

それが日々駆動することによって彼がこさえる、

なんというか、コリに対する、有効な指圧ではないか。

コーヒーが。

というそんな大きな話は、まあ、うっちゃっといて、

なんでコーヒーをおいしいと言われると嬉しいのだろう、

ということです。

 

コーヒーって、あなたにとってどういうもの?

という、その答えは、立場によっていろいろでしょう。

毎朝のむひと、仕事の合間にのむひと、

仕入れた珈琲豆をドリップして提供するひと、

自分で焙煎するひと、などなど。

でも、いろいろでありつつ、

ぼくは勝手に、それらどのひとにとっても、

共通してあるベースの認識は、

「いつのまにかそこにある

 なんか変わった味のへんな飲み物」

なのではないかと思っていますがいかがか。

で、ぼくにとってはコーヒーというのは、

なんというか、あれです、姿です。

顔とか、体つきとか、ファッションとか、

一挙手一投足の所作とか、

声とか話し方とか、視線の機動とか、そういう、

そのひとをそのひとと認識させる、シンボルのひとつ。

磨けば洗練されるし、そのときの精神状態がもろに出るし、

そして、褒められると、嬉しい。

これは、ドリップにしろ焙煎にしろ、

「コーヒーをつくる」という工程に対して、

こじらせているひとなら、わりと共感されるところではないか。

ぼくは、ドリップ者なので、淹れるコーヒーに、

個人的なあれこれが投影されるし、

淹れたコーヒーに対する評価は、

ぼくという人間に対する評価にまで引っ張って

受け止めています。

あれなんですよね、ほんとに。

例えば、落ち着いて淹れると落ち着いた味になるし、

あわてながら淹れるとあわあわした味になるのですよね。

ひとに提供するとき、だいじなのは、

自信。と、そう思っています。

堂々と淹れるべし。と。

 

で、まあ、

それでですね、

ぼくは出張コーヒー屋をおこなっているとき以外は、

会社員しています。

電話の仕事です。

で、仕事上、話し方についての指導が

定期的にはいるのですよね。

ぼくはかなり早口なようだ。

自覚はあって、

自信がなかったり焦っていたりするときに、

早口になったり、かるい吃音が出てしまったりする。

これは、意識して抑えるのがなかなかむずかしく、

つまり意識する余裕がないと、出てしまう。

話し方、というのは、人間が出ますよね。

それを意識的に変えるというのは、

生半可なことではない。

実際、なかなかうまくいかない。

でも、悲嘆はしていない。

むしろ、面白がっている。

すこーしずつでも変えていける、と思えている。

それは、淹れたコーヒーをおいしいと

言ってもらえるときがあるからです。

コーヒーも、話し方も、人間。

コーヒー的な早口は、けっこう大丈夫に出来たのですよ。

だから、話し方も、出来よう。

いまはうまくいかなくても、コーヒーがある。

だから、大丈夫。

というそういう存在です。コーヒーとは。

あなたにはそういった、肉体以外の、

しかし魂が通ったシンボルはあるか。

 

あるなら、それをこれからも大事にして、

ひとから見てもっと、

「それが好きなのしってるけど、

 お前そこまではさすがに……いや、なんでもない」

と言われるようにこじらせよう!